ウクライナ侵攻。
ロシア軍の一般人への虐殺が告発されており、毎度のことながら、人間は人間に対して、どうしてここまで残虐になれるのかと恐ろしく思っております。
力のある側が、力を持たない側を一方的に拷問し、強姦し、殺戮する。殺し方がまた惨い。第二次世界大戦の終戦間近、ロシアが日本の民間人に対して行った事となんら変わらぬ単語が並ぶ。私がその事を知ったのは、社会人になって30代の頃。あまりに惨い言葉が並ぶ資料に吐き気を覚えながら、知る必要を感じて読んだ記憶。
戦争なら何をやっても、やられても仕方ないのか?と思ったものです。極限状態だと、普段とは違う精神状態になり得る。その時に他者を思いやり助け合える精神を持ち続けられるのか、自分一人逃げたくなるのではないか、他者を陥れてでも自分は助かりたいと思うのではないか。人間の品性や徳は脆い一方で、どうせ死ぬなら惨めに死ぬより一矢報いたいと強くもなるだろう、そんなことをひとしきり考えたことがあります。
TVを持たないもので、webニュースやYoutube動画で情報を得ておりますが、文字面だけで十分、私は削れてしまう。だから画像検索もしないし、現地映像も見られません。コロナ不況で経済的な不安が冷めやらず、精神疲労状態が続いておりますから、普段より、不安や恐怖に対する耐性が落ちまくっている自覚があります。
SNSのタイムラインで、ロシアが早く負けて停戦すればいいと願っているつぶやきを多数目にしますが、私にはこの戦争は、停戦となれば終わるとは思えずにおります。クリミア侵攻の後も、ずっとウクライナとロシアは境界を接して不穏な状態が続いてきたのだし、戦争は「止めます」と宣言したところで、守る気が無い人が一人でもいたら、その条約や法律には何の意味があるのやら?
私の火曜の夜のお楽しみ、地政学・奥山真司氏の動画で興味深い話題が出ておりました。
32:00~45:00辺り
・日本の教育では「平和は尊い」「守るべきもの」というだけで、何が平和か、平和とはどんな状況かを教育で教えていない。
・日本は、戦争が何故起ころうが、中身がどうだろうが、禁止1点張り。無いものにしたい。どこかの国と戦うなんて議論さえしない。できない。
・そんな教育を受けてきた世代は、戦わなければいけない状況とはどんな状況なのか、理解できない(やられっぱなしでも、やり返しても、その結果が後でどんな事態に帰結していくのか、思いつけない、思考ゲームが出来ないという意味かと)
→私は生まれた時は終戦後だし、高度経済成長にバブルもあったから戦争は遠い昔世代。国と国のやり取りは善意や正義だけじゃないと理解、実感できたのは40代になってから。。。
・みんなが合意する平和は無い。それぞれが求めている平和な状況は立場によって異なる。
→ウクライナにとっての平和とロシアにとっての平和が同じではないのは想像に易し。
奥山氏は、ある秩序が保たれて守られている状態を平和と定義しておりましたが、なるほどなと思いました。良くも悪くも、秩序が保たれていれば、混乱は生じにくい。
私は、平和と言えば「争いのない世界」を連想するけれども、ある権力によって押さえつけられても実現する代物だな、なんても思ったり。「戦争のない世界」を連想して武器を無くせばいいと思っても、無ければ単純に力が強い方が勝つので、弱いものが駆逐される弱肉強食が浮かび、武器を無くすだけじゃ足りないんだなと思ったり。でもじゃあと、悪行を縛るための法律を作るとなると、守る気が無い人には意味がないとなり、罰が必要となればどんどん個人を管理監督する社会に近づいていき、ある権力によって強力に統制されていく方向性に近づいてしまい、それは望んじゃいのになと思い直す。
平和って、私の周りにはありふれてたはずなのにな。
結構平和は難しいし、よく知らなかったんだな。
まだうまく言語化出来ないと感じたので、自分なりにもうしばらく考えます。
和田社長が「悪魔の辞典という本で、平和とは戦争と戦争の間のばかしあいと書いてあった」と言っていたのが妙に心に残っています。
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