植物展を見た後に、多肉植物が他の動植物にどんな影響を与える存在なのか、気になって調べております(まだ調べ中
植物展では、虫に蜜を与える代わりに虫を使って受粉する植物や、何かに寄生して光合成もせずに生きる植物の紹介がありました。
同じ空間、同じ環境で生きるもの同士は、本人が意識する/しないはあっても、何かしら関わり合う相手の存在が必要なのではないかと思うのです。
食物連鎖が存在するからには、生きとし生けるものは、誰かのためにある命。だから「自分ひとりでは生きていけないし、生かされている」という仏教的な考え方に馴染んでおります。
そもそも、多肉植物はどうしてこんな姿なのだろうかとググってみて、石のように見えるのは「石に擬態」しているのだと書いているサイトを見つけ、なるほどな~!とヒントをもらいました。
そのサイト「結晶美術館」
画像がいいだけではなく、中の人の文章が楽しいので、暇な時に眺めまわして欲しい素敵サイトです。
この方、多肉植物をスライスして食べてみたとあり「食物としての利用」の可能性まで気付いてしまったわたくし。そっちの線も含めて、図書館のリファレンスに依頼中(他力本願
ところで、
リファレンスの結果が待ち遠しいなと思う間に、
「あれ?私もしかすると思い違いしているかもな」と浮かんだことがあります。
生き物は互いに影響し合って生きている前提でリファレンス依頼をした訳ですが、
生き物はそれぞれの種の保存、遺伝子を残すために生きているだけで、
他の植物や動物との関わりは花粉媒介などメリットがあるから関わるだけで、
自分だけがいかに命を繋いでいくか、それしかないのではなかろうかと思いついてしまったのです。
(私の設問設定がおかしいせいで、関連図書が見つからない可能性もありますね‥)
人間は、家族、友人、隣近所、同僚、社会と、自分の所属する集団との関わりの中で生きているから、誰かに好かれる、誰かの役に立つ、誰かに必要とされることが生きる必要条件のように感じていますが、十分条件でしかないのでは?と思いついてしまったのです。
ただ生まれるだけ、生きるだけ、生き延びるだけで、命の目的は達成なんじゃなかろうかと思いついてしまったのです。
スピリチュアル系の「ありのままでいい」は何だか欺瞞を含む言葉に思えていたわたくし。
だって、そのままで良くないから他人と衝突もする訳で、どこかしら譲ったり変えたりで社会生活を生きて来た経験から、何だか言葉足らずな表現に、現実をどうにも変えられないで困っている人が飛びついているように見えて、こういう言葉が返って人を遠回りさせるように感じていたのですが、私の解釈が間違っていたのかもなとも思いました。
生まれた意味、生きる意味。
無いものを探しても見つからない、自分探しは無いものがあると思うからいつまでも終わらない。ループから抜けた私だからこそ、ただ生きるだけいいという思い付きが、真理に思えて仕方ない。
最近、国としての枠が崩壊しかけているアフガニスタンのニュースを見てゾッとしています。タリバンの下では常に殺される予感と隣り合わせ。死にたくないから飛行機につかまって何とか出国したいと落下する様子を撮影した動画を見て、悲しくて涙が出ました。どんなに悲惨な環境や情勢になろうとも、その土地に居る人はそこから出られないなら、そこで生きていくしかない。
アメリカの撤退はアメリカの都合を思えば正しいと思います。アフガニスタンも、いつまでも自浄できずに賄賂や汚職がまかり通るような状態が続いてきたのだから、よそのうちの問題にアメリカはもう付き合いきれないと手を離した結果、自立できないアフガニスタンはあっという間にタリバンに制圧されてしまう。先日はISISの自爆テロの報道もあり、これから現地でどんな非道な事がイスラム原理主義の正義の下に行われるのか、暗澹たる気分になります。
多肉植物も、乾燥地帯で身動きできず進化して今に至る。
死に絶える前に、水が低きへ流れるがごとく、生き延びる方向を見つけてそちらへと進んでいけたらいいのだけれどと祈るばかり。
コロナが心配だろうが、日本は基本的に平和で安心して過ごせる国。
なんていい国に生まれたんだろうかと自分のラッキー具合を思います。
10年前、東日本大震災を契機に自分の生き方を変えたわたくし。
あれから10年目、コロナ下の世の中と多肉植物の生き方とアフガニスタンの崩壊をみながら次の生き方に思いを巡らしております。簡単に答えに行きつけずグルグルしておりますが、目的を設定せず、ただ生きるだけでもいいのかもなと、自分のこれまでの人生で培った地力を信じて生きてみるでもいいのかもなと思い始めております。
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