TV持ってないし、その番組を直接見てもいないので、詳細は分からないながら、日本テレビの番組で、アイヌと掛けて「あ、犬」という謎かけが炎上したとTwitterで見かけました。
私も差別反対の立場ですが、差別する意図があってやったことなのか、そこらへんが見えないために、違和感感じたことを書きました。
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某不適切発言。私はネタとして、出来が小学生の発想的だなという浅さは感じたものの、それが長年侮蔑的に言われ続けてきた言葉とは知らない。生まれ青森だけど知らなかったし、聞いたことが無かったな。それはさて置き、自分が知らなかった事にまで、差別的発言をした責任あると責められる世の中辛いな。
いつから日本はそういう片方の言い分だけ、聞かなくてはいけない風潮を良しとするようになったのか。日本には喧嘩両成敗という言葉があるように「知らなかっただけで、そんなつもりなかった」「分かった、でも気をつけて欲しい」「分かった」こういう相互理解が普通だった気がするんだけどな。
※喧嘩両成敗ってこの場合引いてくる言葉として適当ではないなと後で思いました。
知らない事って、普通にたくさんあるよ。私53歳だけど犬という言葉は「使い方で」侮蔑的な意味あいが生じるのは分かるけど、単なる犬という単語に、常に侮蔑や差別的な意味合いを込めるような常識は持ち合わせてないから、何か偏りを感じてしまう。そこに思いが至らない方が悪いという意見に違和感あり。
差別がないからこそ、差別を嗅ぎ分ける嗅覚が鈍いんだと思います。リベラル的な活動は、時に先鋭的になって、却って差別を鮮明にしている逆効果を感じてしまう。言われて嫌な思いをしたら、人って傷つきたくないから、防衛的な壁作る気がします。関わらないようにしようとかね。それ、余計浮かない?
こう先が読めない世の中だと、自分のことで手一杯、他人が勝手に傷つくことに、いちいち構ってられないという心持ちの人だって増えてることでしょう。人は自分の利益になる行動には耳目を傾ける余裕は最後まで持つが、自分を攻撃したり否定するものは拒む傾向強いのが普通(少なくとも私はそう思う。
他人の痛みはその人のものだもの、私には想像するしかなく、想像力の力量次第で100%だったり10%だったり、人によって様々だろう。犬を差別している表現と言う人は、誰も彼もに100%であれかしと言ってるようなもんだなと感じ、それって、現実的じゃないと思うんですよ。何しろ別人格、別価値観。
でもね、原理主義的な物言いはそりゃぁ原理原則、差別はいかんよ!という結果にしかたどり着かない物言いだから、反論しにくい。でも、原理主義って、私に言わせるとイチゼロのデジタルな問いかけで、生身の現実はそうクリアに割り切れない事の方が多数だろう?って思う事も正直なところ。
何か、除菌を一生懸命しなければいけない生活が続いた影響で無謬を求める流行でも来ているんだろうか?なんて(苦笑)今の世の中はさ、大人だけじゃない、子供だって、白がいいけど白だけじゃ無い世の中を知ってる、感じてる。片方から見たら白でも、見る向きを変えたら真っ黒もあると知っている。
黒が沢山あるより、白が多い世の中がいいと思ってるけど、白が増えたら黒が減る訳でも無いって発想も、大人の世界では必要だよなーと最近強く感じる(横道それた
気軽な発想のネタに、深刻な自分の思いを突きつけても、レベル差あるのが当然で、軽重ありすぎる相手と絶対的なバランス取ろうとするのが無理筋だと思う。だから違和感感じてる。
それ酷いと訴えるのはありと思う。自由だし権利もあろう。
同じく、相手がそんなつもりじゃないから、あなたの言うことに該当しておらず、ゆえに受け入れられません、謝りません、という自由も、頼む、日本人よ、残してくれよ、それが真の自由じゃないのか?と、似たようなリベラル凸見るたび感じる今日このごろ。昭和育ちのつぶやきでした。
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