誰もが、自分の信じたいものを信じて生きていると思います。
信じられるものが多ければ、そこは安心になり、心地良いになり、危険だ逃げろなど、短距離判断出来ますから、生きることが楽になりますよね。
生きる過程で、見聞きしたり、実体験したりで、年を取るほどに信じるものが増えていくのが普通かと思います。
同じ様に、信じられないものが増えていくものですが、こっちの方は否定的なニュアンスが入るので、人に「私ね、信じられないものがたくさんあるの!」と大っぴらには言わないですよね(笑
でも、信じるものと同じように、信じられないものもどんどん増やして生きているのが人間だと、私は思っています。
ところで、
私の肌感覚なのですが、コロナのおかげで、社会も個人も「今までの当たり前」が大変化中だと感じております。
コロナが何者かよく分からないまま、恐怖を伴い伝播し社会混乱を引き起こしてきたもので、明確な答えが無いまま有象無象の情報が溢れた状態が見て取れ、いつか来た道、東日本大震災の頃を思い出させました。
あの当時は、みんなが一致団結して利己より他己を重んじ、自制的に、善良全開で他者とつながろう、助け合おうとしていた記憶。単に、私がそうありたかったから「世の中をそういう目で見ていた」だけかもしれませんけどね。
(最近、断言してもいいのか、自分の事でさえ幻想だったんじゃないかと疑う始末)
何が本当か、判断する材料が信じるに足るのか不明な中、それぞれが自己判断で信じるものを探さざるを得ない。私も、未だにコロナ対策は何が正しいのか探して見ているし、私の知る情報が国民全員の共通認識になっていない気がいたします。専門家の意見も、テレビなどメディアの言うこともバラついているし。
客商売だからこそ、店という箱で定点観測しているから分かる、人々の得ている情報や、そこから実施している対策の種類や、程度、方法、実は凄くバラツキがある。それなのに、外国と比較したら2桁ぐらい少ない患者数で済んでいる日本、凄いな~と素直に驚きます。
(バラついているものの共通項が効くのか、バラツキ全てが効くのか、どっち!?もう、分かりませんw!)
誰もが、自分の信じたいものを信じて生きている。
今も昔も変わらないのに、昔ほど情報内容が均一ではないせいで、それぞれの見聞きしたものが違いすぎる結果、信じるものにも大差が生じているように感じます。
先日、知人が私の言葉に激昂し「そんな事言われるの心外!私を馬鹿にしないで!(意訳)」と言われました。
善良で、心優しく、自然を愛する、素直な心の相手を前に、私は汚れてしまった気分で、こっちはこっちで落ち込んでしまいました。
私が知っている情報だと、その方の信じているものは、私にとって疑問が残るものだった。でも、話しぶりを聞いていると、私の知っている情報を相手は知らない。そして、私が知っている情報を伝えたところで、相手が受け止めるか不明。そのくらいその活動に賛意を示し、良きものと信じている感じ・・・
今は便利な世の中で、ググると賛成/反対のどちらの意見もすぐに読めます。両方知ってから、自分がどうするのか判断出来る便利な世の中になりました。私は、両論検索したり、書籍を読んだり、一次資料を当たってから、判断することにしております。
だけど、私と同じものを知ったところで、同じ結論にたどり着かない事は当たり前にあるはず。
でもそれでいいとも思います。
私と同じ考えの人ばかりだと、救われない人もたくさん出そう。
各々が違う方向性でより良き未来を追求すればこそ、全体が良くなって行くと思うのです。
それに、自分もそうですが、
日々変化し続けていると思うと、
知っている情報も更新が必要。
一回納得してしまうと、これはこういうもの、と整理をつけて、そのまま閉まってしまいますが、その情報最新ですか?とスマホのOSアップデートのたびに、自分のことも振り返って思うようになりました。
だけど、興味って、薄れて次へ移るものなんですよね。
すると、あるところで止まった情報を、抱えることになるのが普通ってこと。
こうなると、自分ひとりで全部の情報を追いかけるのは無理ですから、たくさんの方との対話でもたらされる、知らなかった情報が助けになります。
コロナで人と会ったり、長く対話する時間が激減中。
家族や友達と気軽に会って、情報更新たっぷりしたいな~(自粛に飽きてきております
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