対人モード、いくつある?

お馴染みさんの40代独身男性が、若い女性と連れ立ってご来店。何だかいつもと様子が違うので、話し掛けていいものか躊躇。

 

私が知っている男性はもっとざっくばらんで、どうでもいいと思っていることには適当な受け答えを分かりやすく返す人。こっちが指摘すると「バレた?」と笑うような人。

 

「これ可愛いね」というひとつひとつに、「そうだね、この色が○○だね」なんて優しそうに受け答えしている様子を見て、邪魔しちゃいけないなと思ったわたくし。

「こういう一面もあるんだな」というのは新鮮な発見。

次に会った時に、なんて突っ込もうかなと思いながらお別れ。

最近、65歳で定年退職間近の男性の話を聞く機会があり、この方はどちらかと言えば、どんな時でも同じ表現スタイル。65歳だから、人間が出来上がっているといえばそうなのかもしれません。

私は、相手が違えば関係性も変わるはずという前提で、その時々の使い分けが出来て大人、という社会人教育を受けたもので、素の自分はこれ、仕事の自分はこれ、と不明確ながら違いがあります。不明確というか、いろんな対人モードには、それぞれ重なる領域があり、会社といえども仕事以外の交流タイムや食事やトイレといった生活タイムもありますから、モード切替をしながら、使い分けながら、生きてきたと思います。

私のような「使い分け型」の人は多いのではないでしょうか?

若い時の自分の使い分けは、『他人からこう見られたい』という『なりたい自分』に従って、使い分け=演じ分けて疲れていたような気がします。

人生の紆余曲折を経るうち、心に余裕があれば気に掛けていられた『些末な事』が、実はどうでもいいことだったなと気づいたり、面倒くさいなと思うようになって、自分ではないものになりたがる欲求=ないものねだり=無駄~と思うようになり、だんだんと使い分けていた領域が減る…

いや、減るというより、領域はそれ以上広がっていると思いますが、重なり合いが深まり、今やAやBと区別するのが難しい重なり具合になってきているような気がしております。

絶対的に楽に対応できるようになっている自分。

今まで使い分けてきた価値観を内包できたからこその楽でもあり、若いうちはいろいろ試行錯誤で悩んだり失敗も必要だったのだろうなと、当時は苦しんだこともありましたが、いい経験だったなと思えるようなれた50代。

あらやだ、またもや年を取るのは楽しいという結論。

今、たくさんの対人モード発動して暮らしている方、疲れる時もあるでしょうけど、それだけいろんな人間を理解することが出来る、許容することが出来る幅を作っている最中だと思いますから、間違っちゃいないと思います。

いずれ、収束したら、自分がどんな人になるのだろうか、
悩める若者ほど将来を楽しみに、過ごして欲しいと思いました。

それはさておき、よそいきの声、よそいきの顔の件の男性に、次に会ったら本当に突っ込み入れて笑い合えたらなと思います★

たくあんとくもりさんによる写真ACからの写真