プラスチック製品のごみ問題が、最近ニュースになっていましたね。その内、日本国内でもストローが消えるのかもしれません。
私自身は、日本人はもともと湯呑や茶碗といった、把手が無い器を手に持ち、中身の液体の温度や、器の肌触り、重さなどを五感で味わいながら、飲み干す文化だと思っております。
ストローは、無ければ無いで、馴染むだろうなと思っております。
あ、そうなると、ストローという言葉が無くなるかもしれないということか・・・(妄想が止まらない。
ストロー。
中空だから、中身が無い例えに使えますね。
それとも、物体が通る道という意味にも使えそう。
人間の体は、ミミズと大差ないそうですよ。
消化器官が走っているストローのような構造。
便秘はストローの詰まりで万病の元だから気をつける訳で、数日ならいつものことだからなんて侮ることなかれ。
心もストローの様だといいですね。
こだわりは、ストローの内側に出来た出っ張りみたいなもので、サイズによっては通せんぼする関所。いい時にはこだわりなど、特別な視点があるかのごとく言われますが、悪い時は頑固や執着と言われ馬鹿にされる。
私は、最近自分が出来ていないなと思うことに「傾聴」があります。
自分が話したい、話したいと、相手の話題に口を挟んでしまう。
日本語の特徴でもありますが、最後まで聞かないと意味が分からないので、勝手に話の先を読んで口を挟むようでは真意をくむことは出来ませんよね。コミュニケーションはストローみたいに、相手の言うことを素通しで聞かなくては、と思います。
ストローという比喩がなくなると、私は困るな。なんて。
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