江古田音楽祭の関係者の中で、唯一、一人だけ、気にかかっている方がおります。
音楽祭は、江古田の10商店街の人々が集まって主催。
江古田のまちおこしをメインとしてやるからには、金儲けはそっちのけで頑張って成功させようぜと集まった商店街のメンバー。
その中で、リーダー格のくせに「他人を信じること」「他人に任せること」が出来ない人が1名。
春先、既にその傾向が見受けられ、彼のプロジェクト内でのポジションからして、それでは立ち行かなくなるだろうと思い、つまり、実務被害が私にも及ぶ予感がヒシヒシで、目が離せずにおりました。
少々補足すれば、彼にも信頼出来る友人知人はいるのですが、プロジェクトとなると、プライベートな人間関係以外の関係性の中で進行していきますから、彼にとっては、9割方の登場人物が、気心知れたあうんの呼吸が得られない人々。
調和を作り出せない性質のようで、全員居心地が悪い事態が多発しておりますが、マイペースを貫いている彼。
うつらうつらしていた時に、「彼のことが気に掛かっているけれど、自分は彼に対して、どうしたいのだろうか?」と自分に問うた時に浮かんできた言葉。
かつての自分を思い出し、つい自分と同じように見ているようだけれども、自分の事ではないので気にせずともよい。彼は彼の魂の修行中なので、手を差し伸べずともよい。彼のたどり着く結果が、必ずしもわたくしがたどり着いた結果と同じとも限らず、ゆえに見守る以外の必要は無し。と言葉が浮かんで参りました。
なるほど、と納得。
わたくしの「かつて」と似ている彼。
だから気になって仕方なかったようです。
わたくし、若い頃は、愛や信頼という言葉に、ものすごい幻想を抱いておりました。
「100%」理解し合える相手。
「100%」受け止め合える相手。
「100%」許容し合える相手。
100%、完璧が欲しくて仕方なかったのです。他者に望む100%は、自分だけが幸せになりたいと願っているも同然。傲慢。そして、愛されているならいざ知らず、普通の関係でそれを望んでも手に入る確率はかなり低い、、、
他人に求める100%は、自分だけ幸せになればいいという表れにしか思えません。「私を理解して欲しいだけ」の「自分に都合のいい幻想」お恥ずかしいことです。
人に任せる事が出来ない。
大事だと思う友達は数人いたとしても「仲間」を作ることが出来ない質でした。
この場合の仲間とは、
友達は無目的でも付き合える関係、仲間は目的を共有出来る関係。
自営業仲間と知り合ったり、商店街に参加したり、その中で、自分の事業の儲けに直接的に関与しないことでも、全体の為に何かを成したい、社会貢献したいという思いを持っている事業主が多いことが分かり、じゃあ1人より2人と思い商店街に参加することになり、江古田音楽祭につながって今に至る訳です。
人と関わる中で、頼めば、任せれば、手を差し出してくれる仲間がいる幸せを知りました。ひとり個人商店は、本当に余裕が無い運営状態が常態。わたくしの場合は、早々に自分だけで抱え込む事が無理と分かり、隙きあらば、やってくれるという人にお任せするしかなく、お客様にさえ「すみません、トイレに行きたいのでお店番してもらっていいですか?」と頼んでしまう始末(苦笑
思えば、頼ったり、任せたりということは、「相手の気持ちや時間をもらう」ことに他ならなず、頼む側のわたくしには得しかないなと思います。相手にとっては、損にしかならないのが、頼まれごとなのかもしれません。
だけど受けてくれる、やってくれる、ありがとうと私が言いたくて仕方ない存在になってくれる。
前述の彼が「他者は100%”思い通り”にやってくれないから不要」と思っているように見えて、痛い人だなと思って見ているところですが、彼の未熟さが、私自身の未熟だった頃を思い出させて「あれはダメだったよね」と復習させてくれるために、私の目の前に現れたのだろうかな、と思えております。
彼が、自分の望みは自分にとっての損得で、他者の幸福には一切関係ないことに気付き、何故人が自分の望みどおりに動かないばかりか、次々と自分の周りから居なくなるのか、その道理に気がつくことを願うばかりです。
コメントをお書きください