お客様から保江邦夫さんのある著書を紹介され、当時読んだ時には「チンプンカンプン」でした。
いつもの乱読の中で、私が知りたいと感じた事が記載されている可能性を感じて、チンプンカンプンもう一度、と思い図書館から借りた本なのですが、凄い出会いとなりました。
ひとつは、あろうことか、本を洗濯物と一緒に洗濯してしまった。初体験、いただきました。本を洗ってバラバラにしたのは始めてです。
何もかもが細かくちぎれ、シーツやタオルケット、バスタオルに満遍なくまぶされて、この紙くずをどうやったら洗濯物から全て取りされるのだろうか、払っても払っても終わりのない感じで、茫然自失でした(大笑
実は、洗ってしまった本に書かれていた内容に符号するように感じて、大変でしたが「有り難い気持ち」で後始末。
作者の体験談の中に、凄い秘密に気づき、これを世に広めなくてはと知人の出版社へ話に行ったところ、ボヤ騒ぎ。やっと落ち着いたら今度は水漏れ。ここまで邪魔が入るなら黙るべきかと思ったら、「火(か)と水(み)、神(かみ)の後押しです」と言われたという話が入っていました。
解釈次第と言われればその通りなのですが、神様のサインは、人間のイメージするような素敵なものばかりじゃないという可能性の話でもありました。
だから、この惨状は、惨状と思うと惨事だし、神様が私を応援している印として表したことだと思えば、ここまで分かりやすい印も無い訳です(鰯の頭も信心から!ね!
この本を読みたいと思った理由は、「ホ・オポノポノ」や量子論に興味があっていくつか借りて読む内に、web上で見かけたある方が推薦していた書籍の中にこの本がありました。
YouTubeを検索すると、保江邦夫さんも、山本光輝さんも講演動画が上がっているので聞いて見て下されば分かりますが、普通のおじさん達。でも話している話がどこか世間ずれております(笑
誰にも分かるようにと意識せず、思い浮かんだまま話をしているからなんだと思うのです。
本の背表紙にも「口から出任せ」と書いてありますが、二人とも、ストローのような状態でいるから、空から降ってくる言葉が口をついて出るに任せて話しているのでしょう。客観視すると「不思議ちゃん」にしか見えません。それ、本気で信じいるのですか?と聞きたくなること必至。
私は、個人商店を始めてから、非常に縁起担ぎ、験担ぎをするようになりまして、人からすれば「不思議ちゃん」な部分が増加中。その不思議ちゃん部分が、「あ、そっかー!」と反応するような内容がいくつかあり、思いがけず得るものが多い本でした。
●神様はえこひいきする
ツイている人は、階段を二段飛ばし三段飛ばしで先へ進むのは、神が喜んで愛している。私の人生にも、困難を越えて行こうとする時に、何もかもうまくいかない時と、不思議とすいすいと物事が進むことがありましたから、意味が分かる気がいたしました。
私の中には、成功とは銀行の定期預金のように、努力を積み重ねて、満期が来たら成功に結びつくという、困った刷り込みが存在します。今までの人生で、やったら上手くいった!よし次!また上手くいった!という経験より、試行錯誤の後に「やった~!超嬉しい~!」という一瞬を得る経験ばかり。
もちろん、小学生レベルの地頭の子に、高校生の数学の問題は解けないと思いますが、50年も生きてきたら、そろそろ人生の経験値も上がってきていることでしょうから、「神様の二段飛ばし三段飛ばし」よろしく、「苦労しないと幸せになれない」という思い込み、刷り込みとサヨナラしたいなと思いました(思えば叶う。分かった時点で過去に出来ると信じよう。
●ん次元、異次元へ移相するということ
例えば、この世のものならぬ声を聞く人がいますが、その方が声を聞いているのは、その存在がいる次元にチューニングがあっている状態で、聞こえているとか話をしているとか、そういう私達がやっている行為とは違うかもしれない。ただ、感じた内容を表現しようとすると、3次元にいる私達は、3次元のやり方で表現するしかないから、言葉に置きかえる。
胡散臭い、詐欺師じゃないかと思うのは、チューニング出来ない人が自分の分かる言葉で表現されるから、相手を信じていなければ、信じきれない。
前述した「ストローのような状態」であることですが、「神様に近づくには波長を合わせればいい!」という本のタイトルに当てはまるなーとも思ったりして。
ここを読んでいる時にふとひらめいた言葉。
「デジタルデバイスを使う発信は、その端末の操作方法やアプリケーションの操作方法という、融通の効かないフィルターを通すことになる。フィルターを通すために、元のままでは通らないことが多く、常に変形させなくちゃいけないからストレートに届かないし、届けようとして手間がかかり疲れる」このひらめき言葉が、結構わたくし的には大発見でした。
●合気道の稽古中の出来事。相手を倒そうとするよりも、相手を愛する気持ちで投げる、相手に深く頭を下げてお辞儀してから投げる方が相手が倒れていく不思議。
私も、相手を理屈で説き伏せようとしても、うまくいかないことを多々経験してきました。お店での接客でもそうです。相手が間違っていても、それが相手にとっての真実ならば、説得は出来ません。不愉快に思っていても、目の前から居なくならない人というのは、仕方もないので聞くしか無いのがお店番。どうせ聞くならばと、その方の話を反論せずに黙って聞くうちに、本当にその方が言いたいことが見えてくることがあります。それを書いたのがブログ「愛なき応酬を止める方法」。私の不思議ちゃんが反応するのです。
愛する、と書くと、恋人同士の情愛や、親子の愛に友愛、様々な愛があって、温度感や強さや、速さや広さや、様々過ぎて意味不明ですよね。意味不明だけれど、どの愛にも共通するイメージを思い浮かべると「温かい光」だったり「美しい色」だったり「良い香り」だったり、抽象的なイメージに置き換えが可能ではありませんか?私の場合は、「空のうつわ」や「ホ・オポノポノの4つの言葉」だったりします。
自分の我を通すよりも、「ストロー状態」「空のうつわ」で相手に対すると、結果は当初思っていたのと随分方向が変わることもありますが、お互いが納得できるいい結果に「おさまる」気がいたします。
●雨や災害は神の浄化
災害にあわれた方には「それどころじゃない」話ですが、私は雨や雷は私に対する神様からの応援に感じる場面を、繰り返し経験しているので、雨=いいことが起こる予兆という刷り込みがあります。規模が大きいと災害になり、人にとっては喜べないことになるとしても、神様の次元だと浄化扱いというのは、人間関係でもあるなと思います。他人の常識は非常識なんて言うじゃありませんか。
自分の見方しか出来ないと、他者の思惑が自分に添わない時は、災難にしか思えない人間関係になります。相手に悪気がなければ尚更腹立たしことでしょう。相手と同化は出来ませんし、人間関係のすれ違いは他者が存在する限り、普遍(不変)の大命題。自分にとって良い/悪い、自分にとって正しい/間違いをフィルターにすると、平行線をたどります。
「そのやり方じゃ、ダメなんじゃよー」という神様の教えだとして「じゃ、どうしたらいいの?」と思いますが、人生に答えなんて無い!正解が欲しいと思うなら、いちいち自分なりに試してみるために、私の人生があるのだろうな…たどり着いた時には、解決したかったことと違った形になっていて、その時にはどうでもよくなっている、というのが私の人生を振り返ると起こっています。ヒントはその辺りなのかもしれません。
●単純な繰り返しに神は宿る
人生も、起きて仕事して食べて寝ての単純な繰り返し。
というか、人生はその単純な繰り返しが出来ないと死ぬ。
努力を積み重ねて成功する人は、積み重ねが必要なことに当っていたからだなとも思う。やっている内に楽しさにも気がつくし、やらずにいると自分の中に違和感が生まれるから、必要な繰り返しをしているのかな?と思う時は、その辺りの体感が目安に出来そうだなと思いました。
ちなみに、前述にある「苦労しないと幸せになれない」という私の刷り込みは、「必要以上の努力」をやらなくちゃというドM発想の積み重ねなので、また種類が違うと思います。
当初知りたかった内容でも無かったようですが、これはこれで発見がある面白い本でした(かなり電波な本です
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