気持ちはあるのに行動できないことを繰り返し、後悔したり反省する中で思い浮かんだことが「私は一人ではない」ということ。
頭で考えている自分と、体の自分は、別な意思を持っているのではないかと、我が事ながら疑っております。
さっきはAだと思ったのに、いつの間にかBに気持ちが変わるのは、もう一人の私のせい。
痩せたいくせに、食べたくなってダイエットに失敗するのは、もう一人の私が食べたかったせい。
締切を知りながら、遊び過ごしてしまうのは、もう一人のわたしが遊びたかったせい。
大好きだと思う相手なのに、何かの拍子に嫌気がさすのは、もう一人の私のせい。
「もう一人いる」と思ってみると、いろいろ説明がつく気がします。
もう一人の私は、私と常に同調する訳ではないのが厄介なんです。方針の乖離が甚だしい時には、私を引き裂くような事態を、サラッと作り出します。
そうすると、
「何故できないのか」
「何故あんなことを言ったのかな」
「何故あんなことをしちゃったんだろうか」と
思い悩んで自分に自信が持てなくなったりします。
だから「私は一人ではない」と思って出来事を振り返ると、
「もう一人の私のせい」と思うことで、
何やら腑に落ちる説明がつく気がして、「私は一人ではない」学説を布教中。
ほんとかどうか、そんなのどうでもいいのです。
信じる人は信じて、気が軽くなるならそれでいいじゃないですか。
決めかねる時や思い悩んでいる時、自分に対して問いかけてみるというのは、この学説に合致している気がいたします(やっぱり真理なんじゃ、、、、(イヤイヤ、それは盛りすぎ
お店が暇なもので、つい妄想タイム。
コメントをお書きください
まるお (日曜日, 08 5月 2016 03:22)
信じるか信じないか、とゆーより、思い込むか思い込まないか、で行きます。
人は気のものですもんねー。
でも、人は心のなかに神を宿している、とゆー説は信じてたりします。
何をしても我が身の中にいる神に見られてると、
気の弱い私はそれだけで身がすくんでしまいます。てへ。