感性は説明しにくい件

昨日いらっしゃったお客様は英語率が高かった日。
午前中にいらっしゃったお客様は、陶芸に興味があり萩焼で焼き物を学んだ英国人のご友人がいらっしゃるとか。久し振りに来日するというのでプレゼントを見繕ってお買上げ下さいました。

その折の雑談で、あれこれと文化的な話題が出ると外国人のご友人の方がディテールに詳しくて、いたたまれない気分になるんですよね、という苦笑い話に花が咲きました。

 

タジタジという副詞が思いつきます。

 

『わび、さびってどういう事?』みたいな感性が関わる話題は、言葉を尽くしても伝え切れない気がしているということで盛り上がりました。

 
不思議な事に、民族的な感性は、私達世代の場合、日常生活や学校教育の中で何となく本質が受け継がれている模様。言えないけれど、分かるという本能的な理解をしている状態。

 
これ、言葉に出来る程の理解なら、より共通認識として広めやすく廃れにくかろうと思いました。その一方で、そんなに単純なものではないから、ひと言で言い表せずに、感覚として馴染める状態は健全な気もします。


(今の若い人達も分かるかな??)


ふたりの話題は、外国人の友人から「日本の○○ってどういう意味?由来は?」と聞かれても説明しきれないという事。お客様は、最近いい本を見つけたそうで、それを相手にプレゼントするのもいい方法かなと提案してくれました。なるほど。


でも、うかつにいい本をプレゼントして、更に深い興味を誘発した時に、もっと説明できませんよ、わたくし。。。。情けないですね。きっと、こんな風に困る方は多いはず。


最近の私はかなり開き直って、アジの開き状態。私の感じる現実が世界とばかりに、話していいよと思っております。私の現実が深くなるように、私の興味の赴くままに本を読み、見聞を広めて考察する。


いつたどり着けるか分からない真実を追い求めて寡黙を通しても何も伝わらないし、こちらも封鎖状態では説明が上達しませんしね。


私がかつて駐在した中国では、出会う人分の意見や思惑があり、真実って何?って混乱状態でした。それぞれの現実が恐ろしく乖離していた国です。そんな人々の話を聞いて、結局私は私の信じたい内容を選んでいたと言えます。


その経験から、私の、あなたの、善良なるフィルターを通した日本の真実を伝えても、受け取る相手は信じたい内容しか受け取りませんから、それでいいのかなと思います。私は精一杯、私の真実を深める努力をしてそれをお伝えすることを厭わないようにするのも正解かなと思いました。


お客様と話していて、日本人は『厳密』なところがあるな~と思った次第。誰のための厳密?みたいに考えると、硬すぎる?なんて緩くなれるかな・・・

正解なんて無いのかもしれません。
せめて誠実に善意で当たれば少なくとも自分に嘘はついてないぞ・・・なんてね、思うのです。